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【アラベスク】  第15章 薄氷の鏡



第3節 狐と鶴 [11]




 クスリ。クスリって。
「ま、やく」
「他に何があるっていうのよ。ホント、アンタって世間知らずね」
 罵られても、この状況では恥かしいとも思えない。そんな余裕無い。
「あの、それ、どうするんですか?」
「はぁ? そんな事もわかんないの? ホンットお子様ね。慎ちゃんもなんでこんなのと縁持ったのかしら?」
 さんざん嫌味を言いながら床に腰を下ろす。
「いい? よく聞きなさい」
 顎をあげる。
「酷く痛がるようだったら打つわ」
「打つ?」
「えぇ、そうすれば痛みは和らぐはず」
「え?」
 美鶴は、注射器と霞流を交互に見る。
「打つって、クスリを霞流さんに打つって事ですか?」
「他に誰に何を打つって言うのよ」
 イライラとしながら煙草を取り出し、火をつける。そうしてフーッと煙を吐き出し、床に転がる携帯電話を一瞥する。
「アンタ、まさか救急車なんか呼んでないでしょうね?」
「え?」
「アタシ、言ったわよね? 余計な事はするなって」
「よ、呼んでません」
 嘘ではないよな。呼ぼうとしただけで、実際には呼んでいない。
 美鶴の震える声に、ユンミは煙草を咥えて大きく吸い込む。
「アンタは理解していないみたいだけど」
 煙を吐き出しながらそう前置きをし
「慎ちゃんが嫌がってる騒ぎってのは、単に救急車を呼んで大事(おおごと)になるのが嫌だって意味じゃない」
「じゃ、じゃあ」
「クスリの事がバレるからよ」
 チラリと注射器へ流し目。
(さと)い医者なら一発で見破る」
「見破るって?」
「慎ちゃんがクスリやってるって事がよ。逆にバレないようなら、その医者はヤブね」
 目の前が暗くなるのを感じた。
 霞流さんが、麻薬?
 不思議なことではないのかもしれない。あのような妖艶な店に出入りをしていれば、そのようなモノに接触する機会はいくらでもあるのかもしれない。
 残念な事に、麻薬は今の日本社会では入手するのにそれほどの苦労は伴わない。日常の、すぐ手の届くところに存在する薬品のようなモノだって、麻薬と同じような役割を果たすものはいくらでもある。美鶴を地下に監禁した澤村(さわむら)優輝(ゆうき)だって、トルエンという劇薬を使用した。毒劇法によって販売や取り扱いが規制されている劇物だが、日本に存在する以上、手に入れる手段や機会は、作ろうと思えば作れない事はない。
「クスリやってる事がバレたら、怪我どころの騒ぎじゃない」
 煙草をテーブルに押し付ける。焦げた、嫌な匂いが漂う。
「慎ちゃんが捕まる」
「捕まる」
 美鶴は、うわ言のように繰り返す。
「だから、救急車は呼べない」
「でもこのままじゃ」
「アンタはいいの?」
 もう一本取り出す。
「慎ちゃんが捕まって壁の向こうに閉じ込められても、アンタは構わないワケ? 慎ちゃんが捕まればアタシ達だって見つかっちゃうし」
「それは」
「だいたい、捕まるべきなのは慎ちゃんじゃなくってアンタのはずよ」
 煙草を咥える。
「このままじゃ慎ちゃんは死ぬ。死ななくったって打ち所が悪ければ後遺症が残るかもしれない」
「後遺症」
 下半身や、半身が自由に動かない霞流を思い浮かべる。足を引き摺る霞流。指が動かず箸も持てない霞流。ベッドに寝たきりの霞流。思うように話す事もできない霞流。
「そんなの嫌」
「アタシだって嫌よ」
 ユンミは吐き捨てる。
「でもどうしようもない。このままじゃ慎ちゃんは弱っていく。でも医者も呼べない。アタシ達には、痛がる慎ちゃんにクスリ打ってあげる事しかできない」
「やっぱり病院に」
「ダメだって言ってるでしょうっ!」
 バンッと平手でテーブルを叩く。
「慎ちゃんをムショに放り込みたいワケっ!」
 そんなのは嫌だ。だけど、このまま放っておいて霞流さんが死んでしまったら。
 美鶴は両手で顔を覆った。
「泣きゃあいってもんでもないでしょう。ったく、これだから女は嫌だ」
 別に泣いてなんかいない。泣きたいような気もするけれど、涙も出ない。ただ、どうすればいいのかわからなくって混乱する。
 私が身体差し出して、それで霞流さんが治るんだったら覚悟だってする。何でもするよ。だから神様、霞流さんを助けてよ。
 無信教者がこんな時だけ都合の良い神頼み。
 私って、本当に都合がいい。
 霞流さんが好きだ。振り向かせたい。でも無理矢理犯されるのは嫌だ。玉砕するのを覚悟で想いをぶつける勇気もない。身体を求められれば陳腐な言い訳で逃げようとする。
 サイテーだ。私は最低だ。
 そもそも私が霞流さんの後を追ったりしなければ、二人っきりになればチャンスが生まれるかもなんて甘い考えを起こさなければ、霞流さんはこんな事にはならなかった。
 店の中央で、霞流にウィッグを剥ぎ取られ、周囲の嘲笑を浴びた女性。あのようになるとわかっていても、それでも自分は正面から堂々と霞流に声を掛けるべきだったのだ。断られるのを覚悟で、踊り方がわからなくって無様な醜態を曝すのも覚悟して、それでも霞流に声を掛ければよかったのだ。
 今さら遅い。何もかも手遅れ。どうすれば? どうすればよい? せめて病院に連れてさえいくことができたなら。
 そこで美鶴は目を見開いた。いつの間にか強く閉じていた瞳を開いて床を見つめる。そうしてそのまま口も開いた。
「闇医者、みたいなところへは連れてはいけないんですか?」
「は?」
 聞き返すユンミに、美鶴は顔をあげる。
「合法的じゃない医者がいますよね。そういうところだったら、クスリの事に目を瞑って処置してくれるんじゃないんですか?」
 ユンミは瞳を細め、煙を吐いた。
「金は?」
「は?」
「金はどうするの?」
 煙草を咥え、顎をあげる。
「そういうところの相場、アンタ知ってるの? 言っとくけど、健康保険で三割負担なんてシステム、通用しないからね」
「お金」
 相場なんて知らない。法外な金額を請求される事くらいはなんとなく想像できるが、具体的にどのくらいのお金を要求されるのか、美鶴は知らない。見当もつかない。







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